感謝すること、されるということ

仕事でも日常でも、感謝されるということを体験できると嬉しい気持ちになる。

でも、いつも同じように感謝されるわけではない。相手が自分の言動をどう受け止めるかで変わってくる。

相手が『してもらって当たり前だ』と思っていれば、『ありがとう』はないし、自分も『ありがとう』を言って欲しくてやっているつもりもない。

ただ、『ありがとう』と言われると嬉しいのは事実で、この言葉を受け取ると素直にもっと成長したいと思える。

 

僕が今まで経験した『ありがとう』の重さを感じる場面は、自分の命や健康もしくは自分の大切な人の命や健康が関わった場合の『ありがとう』。

その人の治療がうまくいって無事に退院するときの『ありがとう』もあれば、全力の治療を行うも治療の効果が得られず良くない経過になってしまった場合の遺族からの『ありがとう』もある。いろいろ。

仕事でやっている以上は、やるべきことはやるだけなので、僕はそこに『せっかくやってあげたのに』は当然ない。

 

ただ自分が今まで勉強してきたこと、経験してきたことが病気を治したいと思って戦っている人のために何か役に立つことができたと自分のなかで思えたら、それで良しとしている。自分が何か相手に与えられたら、その時点で自分のなかではうれしいという気持ちは完結していて、そこには相手からの『ありがとう』は関係ない。人の役に立てた→嬉しいなで終わる。それとは別で、たまたま相手からもらった『ありがとう』は追加で嬉しいなとしている。

 

なにが言いたいか僕の語彙力では難しいんだけれども、感謝されることは嬉しいんだけど、それが自分の幸せに直結すると、自分の幸せを他人に依存する考えになってしまう気がしてしまう。相手からの感謝はおまけであって、自分が他人になにかしてあげれればそれで幸せを感じれれば良いと思う。

 

で、自分が病気を治したいと思って戦っている人になにか治療行為を考える時、行う時、そういう場面で緊張はする。手も振るえることもあるし、心臓がドクドクして動悸を感じることもある。

 

でもこういうとき、僕がまだ小学校だった時のドッジボールチームの監督が言ってくれた『ここで試合できることへの感謝の気持ちを思え』という言葉がいつも頭に聞こえてくる。『勝とう勝とうするな。力んだ時は感謝の気持ちをイメージしろ。チームメンバーだけじゃなくて、お前の両親が送迎して、月謝払って、ユニホーム、シューズ、洗濯もして弁当も作って、応援にもきて、親だけじゃない、体育館を整備してくれる人、審判してくれる人、ボールを作ってくれる人、試合相手、自分の感謝のイメージが思い浮かぶだけイメージしろ』。

 

相手に何かしてあげたい気持ちになった時、何かしてあげられる自分にしてくれた背景や人脈、物、ありとあらゆることに感謝のイメージをすると肩の力が抜けて、手の震えも動悸も僕はおさまる。いい結果を残そうとするのではなくて、感謝すること。

 

感謝されたいと思う前に、自分が先に感謝の気持ちで満たされる習慣にしておけば、他人に自分の幸せを委ねずにすむのではないかと、仕事をしていて学びました。

このブログは

社会人になって10年目、日に日に1日が過ぎるのが早くて、何か始めようと思いはじめてみた。

毎日が同じことの繰り返しのようで、そんな感覚に不安になって、日々の自分の感じたことを日記につけようと思った。

妻もこどもたちも寝静まった後、書斎で孤独を楽しむのが最近は自分の過ごし方。

書くことで自分と向き合う時間が増えればきっと幸せになれるはずだと思ってはじめる。